小3時代の自分(発達障害児)
久しぶりに子ども時代を振り返りたいと思います。今回は小3の頃です。
進級
2年生の担任は異動し、2コ上の先輩の担任だった先生が僕らの担任となりました。評判が良い先生で本当に当たりだなと強く感じて安心したのを覚えています。叱る時も大声を出すことは一度もなく、ゆっくりと諭して理解させるという手法をとる先生でした。
自分としては授業も分かりやすく楽しいのでずっとこんな時間が長く続けば良いのになあと感じました。特に社会科の授業は楽しくこれきっかけかわからないけど地理学や社会学を大人になってからも学ぶきっかけになったと思います。
友人関係は?
小2時代のエピソードにもありますが一緒に登校していた3人で自分は3年になるからというもの女の子の方とむちゃくちゃケンカをするようになりました。今考えるととんでもない話ですが傘で目の辺りをつついてケガをさせたこともあります。
本当に失明とか大けがにはならなくて良かった…
当然、こっぴどく叱られてあんたが結婚して責任取るしか無くなるよと言われ、それは本当に嫌だなと思いました。一応その件は仲直りしましたがケンカをし続ける日々は変わらずでした。
また学校内でも他の友達も巻き込んでケンカをして担任じゃない専科の先生から大目玉をくらったこともあります。普段は面白い先生だったから本当に怖かった。
あとはクラスの他の友達には恵まれていましたね。
運動会の応援団を小学校唯一、務めた年でもありました。
何回か友達を仲間外れにしてしまったこともありました。これは反省です。仲間外れをすると必ず自分に返ってきます。
友達との遊び
2年生よりもちょっとずつ遊びは変化していきます。
3年生の時はベイブレードがすごく流行った年でした。どこに行っても売り切れ続出で父は九州から取り寄せてくれて買ってくれました。
また遊戯王カードも流行っていて上級生が下級生にデッキ見せて~からのレアなカードを抜き取ったり、カツアゲも流行っていたので学校では遊戯王の話をしてはいけないというお触れが出たほどです。
あとはドラクエが流行っていましたね。僕らの友達とは。ドラクエモンスターズとドラクエⅢ
とにかくいろんな遊びが流行り、すごく楽しんでいたのを覚えています。
土曜半ドン授業のある日の午後は最高でした。
学校の廃校決定
急展開ですが転校し、楽しく登校していた学校が別の小学校と合併するということを聞かされました。もう2年生のうちに決まっていたのでしょうが寂しくてたまりませんでした。
というかせっかく転校して早々にそんな話が出て、4年生から別の小学校(前に通っていた小学校ではない)に通うなんて嫌でたまりませんでした。
それでも時は無常に過ぎていき、廃校が現実味を帯びてきました。閉校式の練習を何度もして先生の指導も熱が入っていました。教師でも廃校に立ち会うことってそんなに頻繁にあるわけじゃないらしいですから。先生も緊張していたと思います。
また合併した小学校には2年生だったときの担任の先生が赴任されていて、3年の担任の先生はその小学校から廃校になる小学校に異動してきたという縁がありました。
閉校のあたり
閉校式当日、なんとインフルエンザに罹ってしまい、あえなく欠席という最後の最後でお別れができなくなってしまいました。本当に悔しくなってしまい、今でも悔やまれます。でも無理やり出席して周りにうつしたらもっと大変です。
たしか、最後の登校日には行けた記憶があります。そこで先生もなんとなくここでお別れなんだなというのを感じました。
でも広い校庭に遊具、森、畑といろいろ揃っていて児童の満足度が高かった小学校の廃校は教育委員会や大人に事情がいろいろ絡んでいるんだなあと感じました。
何せ昭和56年創立という新しすぎる小学校が早すぎる廃校でしたからね。
廃校後の校舎
3年B組金八先生のロケ地に使われたことと、中学校が仮校舎として使っていたことがあり、その後取り壊されました。
そして現在は老人保健施設が建ち校庭のあたりには小学校記念公園があります。
卒業生や僕ら当時の在校生は少ないけど心の中にはきっとまだ存在していると思います。
まとめ
小学校3年が終わり、新しい小学校にまた行くことになるのですが4年生からは馴染むまでに時間がかかります。また次回、その記事をどこかで書いていきたいと思います。
廃校後の校舎を利用した地域活性化活動はさまざまな場所で行われています。僕らの小学校は先駆けになったわけですが、少子化の現在、これからもそうした活動が重要となってくるかと思われます。こうした資料もぜひ読んでみてください。
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